『鳥飼否宇「生徒会書記はときどき饒舌」
第2話 ミミズの秘密(前編)』
9月も後半となったある日、南方海上に発生した台風13号は勢力を拡大しながら、沖縄、奄美を通過し、本州に近づきつつあった。
S中のある首都圏(しゅとけん)郊外の地方都市も、午後になって風雨が強くなってきた。生徒会の面々は、今日は部活などをせずに早めに帰宅するよう、校内放送で全校生徒に注意をうながしたあと、生徒会室に集まってきた。
風で窓がガタガタ音を立てている。皆が帰宅のためのしたくをしていると、生徒会長の岡村さくらのクラスメートである松山朱音(あかね)が、ガラガラと引き戸を開けて入ってきた。
「さくらさん、いらっしゃる? ああ、よかった。ねえ、一緒(いっしょ)に帰りましょうよ」
「あら、朱音じゃない。どうしたの? お母さんが迎(むか)えに来ているんじゃないの?」
朱音はいつも母親に車で送り迎えしてもらっているお嬢さんなのであった。
「それがママったら、風にあおられて玄関先(げんかんさき)で転んだんだって。足をくじいちゃって運転できないから、さくらさんに送ってもらいなさいって。ったく、ドジなんだから」
相手の都合も考えず勝手に決めている朱音の母親に、さくらは苦笑しつつ、「そうなんだ。わかった。じゃあ、いっしょに帰ろうか」と笑顔で応じた。
そのとき、真剣(しんけん)な表情でタブレット端末(たんまつ)をながめていた会計の浜松大雅が顔を上げた。
「雨雲レーダーによると、今は雨の勢いが非常に激しいですが、30分後にはいったん収まるみたいです。
そのタイミングまでここで待機しているほうが安全だと思われます」
「それがいい!」副会長の佐野悠馬はなぜかうれしそうだった。
「台風が来るなんて、ちょっとわくわくしないか? もうちょっとこのわくわくを楽しもうぜ!」
「この、お調子者!」
庶務の北原翔が悠馬をこづく。しかし、翔自身もいったん手に取ったカバンを机の上に戻し、スマホを取り出して、母親に「小降りになるまで学校で待ってから帰る」とLINEした。
「そう言えば」部屋の隅でひとり読書をしていた書記の大場心美が朱音に質問した。
「松山さん、夏休みに沖縄へ家族旅行に行ったんでしょ?」
「あら、よくご存じね」朱音が静かに言った。
「あのときも大変でした。台風10号が直撃したせいでホテルに閉じ込められて、帰ってくるのが3日も遅(おく)れてしまい......」
さくらが朱音の話を引きついだ。
「二学期の始業式に間に合わなかったのよね。てか、よりによって夏休みの最後の週に沖縄旅行にいくなんて、朱音のご両親もどうかしてると思うけど」
「だって、お盆(ぼん)の前後は混雑するでしょ」朱音が首をかしげてにっこりする。
「それにしても朱音って沖縄が好きよね。去年の夏休みにも、今年の春休みにも行っていたでしょ?」
「去年の夏休みに初めて行って、そのとき現地の子と仲良くなったの。桜の時期にまた会おうって約束したので春休みに行ったんだけど、会えなくって......」
「もしかして、それって男子?」悠馬がにやにやしながら質問した。
「ええ、そうよ」朱音が認める。
「桜の時期に会おうなんて、ロマンチックじゃない!」さくらが目を輝かせる。
「でも、会えなかったって......電話番号とかLINEとか交換しなかったの?」
「それはいきなりなれなれしすぎるかと思って」朱音が頬(ほお)を赤らめた。「待ち合わせ場所だけは決めていたのですけど、来てくれなかったんですの。残念ですけど、ご縁がなかったと思ってあきらめますわ」
なんとなく気まずくなった場の空気を明るくしようと、悠馬が話題を変えた。
「そういえば、沖縄のやんばるは世界自然遺産になったんだろ。兄貴が言ってた」
悠馬の兄、佐野壮馬はS高3年の秀才で、かつてS中の生徒会長も務めていた。
「そうですの」朱音がうなずいた。
「奄美といっしょに世界自然遺産になったとか」
大雅がタブレットで素早く検索する。
「正確には、『奄美大島、徳之島、沖縄島北部、及び西表島世界自然遺産』ですね。2021年7月に世界自然遺産になっています」
「世界自然遺産ってなんだっけ?」翔が仲のよい悠馬にたずねた。
「おれに聞くな、兄貴に聞け!」
その言葉にさくらが反応した。
「S中のレジェンドと言われた佐野くんのお兄さんがいたらすぐに答えてくれるだろうけど、いないんじゃしかたない。ここはS中一の秀才、われらが浜松くんに期待しちゃおっかな」
「おまかせください」大雅が右手を添えると、眼鏡がキラリと光った。
「世界自然遺産とは、その名のとおり、ユネスコによって世界的な価値が認められた自然地域です。
日本では屋久島、白神山地、知床(しれとこ)、小笠原(おがさわら)に続き、奄美・沖縄が5番目となります。
国際自然保護連合(IUCN)が評価するのですが、奄美・沖縄の場合は生物多様性が高く評価されました」
「生物多様性......」
さくらはチラッと部屋の隅の書記に目をやったが、当の心美は再び読書に集中していた。
「松山さんもやんばるに行ったの?」悠馬が好奇心(こうきしん)をあらわにして質問した。
「ええ。ガイドさんに頼んで、ヤンバルクイナを見にいきました」
「知ってる。日本で唯一(ゆいいつ)飛べない鳥だよね。1500羽くらいしかいないんじゃなかったっけ?それで、見られたの?」
「はい。わたくしたちが行ったのは夜でしたけど、木の上で眠っていましたわ」
「これだね」大雅がタブレットにヤンバルクイナの写真を表示させた。
「おお、くちばしと足が真っ赤だね。見てみたいなあ」悠馬がうらやましがる。「世界自然遺産っていうくらいだから、やっぱ、自然がすごいわけ?」
「ブロッコリーみたいにもこもこと茂った森が見渡す限りずっと続いていて、自然の奥深さを感じました。ヤンバルクイナ以外にも、ノグチゲラやオキナワイシカワガエル、キジムナーなど、たくさんの生き物がいるんですって」
「違(ちが)うよ。キジムナーは沖縄の森に住んでいると伝えられている妖怪だろ」昆虫好きの翔が笑った。
「ボクはヤンバルテナガコガネを見てみたいな」
大雅がうなずいた。
「今、話に出てきた生き物はどれも沖縄島の北部のやんばるという森林地域にしかいない固有種ですね。ほかにも奄美大島と徳之島にはアマミノクロウサギ、西表島にはイリオモテヤマネコなどの固有種がいます。アマミノクロウサギは奄美大島と徳之島で5000頭くらい、イリオモテヤマネコはもっと少なくて、100頭くらいしかいないそうです」
そう説明しながら、大雅はタブレットにアマミノクロウサギを表示した。
「なに、これ、かわいい!」さくらがただでさえ大きな目をさらに見開いた。「野生のウサギやネコがいるなんてステキ!」
大雅が眼鏡に右手を添えた。
「ほ乳類や鳥ばかりではなく、は虫類、両生類、昆虫、そして植物も。沖縄や奄美にはそこにしかいない固有種がたくさんいます。希少な生き物がたくさんいるので、生物多様性が評価されたのでしょう」
「でもさ、どうして奄美・沖縄には固有種がたくさんいるの?」
さくらが素朴(そぼく)な疑問をぶつけると、大雅は「うっ」と口ごもり、あわててタブレットで検索をはじめた。
口に手を当ててほほえみながら、朱音が言った。
「わたくしも同じことをガイドさんにきいてみました」
「で、ガイドさんの答えは?」悠馬が迫る。
朱音はあごに指を当てて少し考え、それから口を開いた。 「たしかこんな説明だったと思います。鹿児島から台湾まで点々と続く島々を南西諸島というそうです。南西諸島はこれまでに何度も地殻変動(ちかくへんどう)が起こって、中国大陸とつながったり離れたりしたそうです。つながった時代に大陸から沖縄や奄美に広がった生き物が、そのあと海でへだてられると島に取り残されてしまう。大陸のほうの生き物は天敵などにやられて絶滅(ぜつめつ)してしまい、島にとり残されたほうの生き物は天敵がいないので生き延びた。その結果、この地域にしかいない生き物が残った」
検索を終えた大雅が、タブレットの画面に目を寄せた。
「松山さんが答えてくれたとおりですね。補足すると、大陸と島だけでなく、島と島同士も長い歴史上でくっついたり離れたりしてきた。だから、島ごとに違った生物が残った。ハブの仲間は奄美大島や徳之島、沖縄島、西表島にはいるけど、そのあいだにある与論島や宮古島にはいない。それは、海面が上昇(じょうしょう)した時代に平べったい与論島や宮古島は海の底に沈(しず)んでしまい、ハブは絶滅してしまったわけです」
「ハブって沖縄にいる毒ヘビだよな」と悠馬。
「あれって奄美にもいるんだ」
「そうそう、思い出しましたわ」朱音がおっとりと答えた。
「ハブは南西諸島でも奄美大島から南にいるんですって。屋久島から北は温帯で、奄美大島から南は亜熱帯(あねったい)なので、暮らしている生き物が違うとか」
「これが生物の分布境界線です。このラインの北と南で生息している生物が分かれるわけです。有名なのは本州と北海道のあいだにあるブラキストン線。ツキノワグマやニホンザルはこの線より南に、ヒグマやシマリスはこの線より北に分布しています。そして、屋久島と奄美大島のあいだ、正確に言えば、トカラ列島という島々の悪石島と小宝島のあいだにある境界が渡瀬線(わたせせん)です。このラインより北が旧北区、南が東洋区という区分になるようです。奄美や沖縄は東洋区に入っていて、森も常緑広葉樹が主体になります」
大雅がタブレットを見ながら説明すると、翔が口をはさんだ。
「やんばるにはシイやカシの木が多いんだよ」
「よく知ってるじゃん」
悠馬が感心すると、翔は得意げに鼻を鳴らした。
「ヤンバルテナガコガネはシイやカシの大木にできた木の洞(うろ)の中にすんでいるからな」
「結局、虫オタの知識かよ!」
悠馬が突っ込みを入れ、翔が「悪いか!」と返す。じゃれ合うふたりを無視して、朱音がおっとりと言った。
「そうだ、虫で思い出しました。ミミズが重要だそうですよ」
「なに言ってんの! ミミズは虫じゃないし」
翔は朱音をばかにしたが、さくらは朱音の発言を拾った。
「ミミズが重要って、どういうこと?」
「ガイドさんが言うには、やんばるの森の生物多様性にとってミミズが重要なんだそうです。説明を聞いたんですけど、忘れてしまいました」
「なんじゃ、そりゃ」悠馬がいすからずり落ちる。
そのとき、心美がぽつんと言った。
「どんぐり......」
みんなの視線が、部屋のすみで読書をしていた地味な書記に向けられた。
「大場さん、今、『どんぐり』って言った?」
さくらが聞くと、心美はほおを真っ赤にしてうつむいた。
「ごめんなさい。つい、口をはさんでしまって......」
「それは全然かまわないけど、どんぐりってどういう意味なの? いまはミミズの話になってたんだけど」
「わ、わかってます。ミミズは重要なんですけど、その前にどんぐりの話をしたほうが......つまり......シイやカシはどんぐりを実らせますよね。そのどんぐりが森の動物たちをはぐくんでいるんです。とくにシイの実はおいしいし......」
「おれ、シイの実食ったことがあるぜ」翔が割り込んだ。
「うっすら甘くて、うまいよね」
「そうなんです」心美が力強くうなずくと、大きめの眼鏡が揺(ゆ)れた。
「人が食べてもおいしいシイの実は沖縄や奄美の動物たちの命をつなぐ糧(かて)になっています。リュウキュウイノシシもケナガネズミもアマミノクロウサギもルリカケスもシイの実が大好物です。そして、さっき北原くんが言ったように、シイの木は空洞(くうどう)ができやすいので、ケナガネズミやイシカワガエルのすみ家になり、ヤンバルテナガコガネやクワガタムシなどの幼虫がそこにたまった木くずの中で成長します。そして、シイの木の落葉が腐葉土(ふようど)となって、ミミズたちが育ちます。つまり......」ここまで一気に語って、心美は大きく深呼吸をした。
「つまり、シイの実が沖縄や奄美の生物多様性を支えていると言ってもいいんじゃないかと思います」
「そうなんだ、大場さんすごい! 東北の森はブナが支えているって聞いたことがあるけど、沖縄や奄美ではその役割をシイが果たしているのね」
目を輝かせながら手をたたくさくらの横で、朱音がうなずいた。
「ようやく、ミミズが出てきましたわね!」
翔はくちびるをとがらせた。
「大場さんが言うこともわかるけどさ、どうしてここでミミズが出てくるわけ? 松山さんもミミズが重要って言ってたけど、どんなふうに重要なの?」 と、心美が顔を真っ赤にして、必死で翔に反論した。
「ミミズは重要なんです。だって......」
「ちょいとお待ちを」タブレットをのぞいていた大雅が、ふいに声を上げた。「今がチャンスです。これからしばらくのあいだ、雨、風ともに弱くなります。台風が近づいてくる前に、今のうちに帰りましょう!」
「だって、ミミズは......」なおも心美はこだわっていた。
「ごめん。大場さんの話も聞きたいんだけど、今日はみんな、帰ったほうがいいと思う。大場さん、悪いけど、続きは明日きかせてもらえる?」
さくらの提案は説得力があったので、一同がうなずいた。心美も納得していた。
「はい、続きは明日にしましょう」
「もうちょっとわくわくしていたかったのに、もはやこれまでか」悠馬が残念そうに言った。
「さくらさん、わたくしたちも帰りましょう」
朱音にうながされ、さくらが全員に言った。
「じゃあ、みんな、気をつけて帰ってね。バイバイ!」
S中のある首都圏(しゅとけん)郊外の地方都市も、午後になって風雨が強くなってきた。生徒会の面々は、今日は部活などをせずに早めに帰宅するよう、校内放送で全校生徒に注意をうながしたあと、生徒会室に集まってきた。
風で窓がガタガタ音を立てている。皆が帰宅のためのしたくをしていると、生徒会長の岡村さくらのクラスメートである松山朱音(あかね)が、ガラガラと引き戸を開けて入ってきた。
「さくらさん、いらっしゃる? ああ、よかった。ねえ、一緒(いっしょ)に帰りましょうよ」
「あら、朱音じゃない。どうしたの? お母さんが迎(むか)えに来ているんじゃないの?」
朱音はいつも母親に車で送り迎えしてもらっているお嬢さんなのであった。
「それがママったら、風にあおられて玄関先(げんかんさき)で転んだんだって。足をくじいちゃって運転できないから、さくらさんに送ってもらいなさいって。ったく、ドジなんだから」
相手の都合も考えず勝手に決めている朱音の母親に、さくらは苦笑しつつ、「そうなんだ。わかった。じゃあ、いっしょに帰ろうか」と笑顔で応じた。
そのとき、真剣(しんけん)な表情でタブレット端末(たんまつ)をながめていた会計の浜松大雅が顔を上げた。
「雨雲レーダーによると、今は雨の勢いが非常に激しいですが、30分後にはいったん収まるみたいです。
そのタイミングまでここで待機しているほうが安全だと思われます」
「それがいい!」副会長の佐野悠馬はなぜかうれしそうだった。
「台風が来るなんて、ちょっとわくわくしないか? もうちょっとこのわくわくを楽しもうぜ!」
「この、お調子者!」
庶務の北原翔が悠馬をこづく。しかし、翔自身もいったん手に取ったカバンを机の上に戻し、スマホを取り出して、母親に「小降りになるまで学校で待ってから帰る」とLINEした。
「そう言えば」部屋の隅でひとり読書をしていた書記の大場心美が朱音に質問した。
「松山さん、夏休みに沖縄へ家族旅行に行ったんでしょ?」
「あら、よくご存じね」朱音が静かに言った。
「あのときも大変でした。台風10号が直撃したせいでホテルに閉じ込められて、帰ってくるのが3日も遅(おく)れてしまい......」
さくらが朱音の話を引きついだ。
「二学期の始業式に間に合わなかったのよね。てか、よりによって夏休みの最後の週に沖縄旅行にいくなんて、朱音のご両親もどうかしてると思うけど」
「だって、お盆(ぼん)の前後は混雑するでしょ」朱音が首をかしげてにっこりする。
「それにしても朱音って沖縄が好きよね。去年の夏休みにも、今年の春休みにも行っていたでしょ?」
「去年の夏休みに初めて行って、そのとき現地の子と仲良くなったの。桜の時期にまた会おうって約束したので春休みに行ったんだけど、会えなくって......」
「もしかして、それって男子?」悠馬がにやにやしながら質問した。
「ええ、そうよ」朱音が認める。
「桜の時期に会おうなんて、ロマンチックじゃない!」さくらが目を輝かせる。
「でも、会えなかったって......電話番号とかLINEとか交換しなかったの?」
「それはいきなりなれなれしすぎるかと思って」朱音が頬(ほお)を赤らめた。「待ち合わせ場所だけは決めていたのですけど、来てくれなかったんですの。残念ですけど、ご縁がなかったと思ってあきらめますわ」
なんとなく気まずくなった場の空気を明るくしようと、悠馬が話題を変えた。
「そういえば、沖縄のやんばるは世界自然遺産になったんだろ。兄貴が言ってた」
悠馬の兄、佐野壮馬はS高3年の秀才で、かつてS中の生徒会長も務めていた。
「そうですの」朱音がうなずいた。
「奄美といっしょに世界自然遺産になったとか」
大雅がタブレットで素早く検索する。
「正確には、『奄美大島、徳之島、沖縄島北部、及び西表島世界自然遺産』ですね。2021年7月に世界自然遺産になっています」
「世界自然遺産ってなんだっけ?」翔が仲のよい悠馬にたずねた。
「おれに聞くな、兄貴に聞け!」
その言葉にさくらが反応した。
「S中のレジェンドと言われた佐野くんのお兄さんがいたらすぐに答えてくれるだろうけど、いないんじゃしかたない。ここはS中一の秀才、われらが浜松くんに期待しちゃおっかな」
「おまかせください」大雅が右手を添えると、眼鏡がキラリと光った。
「世界自然遺産とは、その名のとおり、ユネスコによって世界的な価値が認められた自然地域です。
日本では屋久島、白神山地、知床(しれとこ)、小笠原(おがさわら)に続き、奄美・沖縄が5番目となります。
国際自然保護連合(IUCN)が評価するのですが、奄美・沖縄の場合は生物多様性が高く評価されました」
「生物多様性......」
さくらはチラッと部屋の隅の書記に目をやったが、当の心美は再び読書に集中していた。
「松山さんもやんばるに行ったの?」悠馬が好奇心(こうきしん)をあらわにして質問した。
「ええ。ガイドさんに頼んで、ヤンバルクイナを見にいきました」
「知ってる。日本で唯一(ゆいいつ)飛べない鳥だよね。1500羽くらいしかいないんじゃなかったっけ?それで、見られたの?」
「はい。わたくしたちが行ったのは夜でしたけど、木の上で眠っていましたわ」
「これだね」大雅がタブレットにヤンバルクイナの写真を表示させた。
「おお、くちばしと足が真っ赤だね。見てみたいなあ」悠馬がうらやましがる。「世界自然遺産っていうくらいだから、やっぱ、自然がすごいわけ?」
「ブロッコリーみたいにもこもこと茂った森が見渡す限りずっと続いていて、自然の奥深さを感じました。ヤンバルクイナ以外にも、ノグチゲラやオキナワイシカワガエル、キジムナーなど、たくさんの生き物がいるんですって」
「違(ちが)うよ。キジムナーは沖縄の森に住んでいると伝えられている妖怪だろ」昆虫好きの翔が笑った。
「ボクはヤンバルテナガコガネを見てみたいな」
大雅がうなずいた。
「今、話に出てきた生き物はどれも沖縄島の北部のやんばるという森林地域にしかいない固有種ですね。ほかにも奄美大島と徳之島にはアマミノクロウサギ、西表島にはイリオモテヤマネコなどの固有種がいます。アマミノクロウサギは奄美大島と徳之島で5000頭くらい、イリオモテヤマネコはもっと少なくて、100頭くらいしかいないそうです」
そう説明しながら、大雅はタブレットにアマミノクロウサギを表示した。
「なに、これ、かわいい!」さくらがただでさえ大きな目をさらに見開いた。「野生のウサギやネコがいるなんてステキ!」
大雅が眼鏡に右手を添えた。
「ほ乳類や鳥ばかりではなく、は虫類、両生類、昆虫、そして植物も。沖縄や奄美にはそこにしかいない固有種がたくさんいます。希少な生き物がたくさんいるので、生物多様性が評価されたのでしょう」
「でもさ、どうして奄美・沖縄には固有種がたくさんいるの?」
さくらが素朴(そぼく)な疑問をぶつけると、大雅は「うっ」と口ごもり、あわててタブレットで検索をはじめた。
口に手を当ててほほえみながら、朱音が言った。
「わたくしも同じことをガイドさんにきいてみました」
「で、ガイドさんの答えは?」悠馬が迫る。
朱音はあごに指を当てて少し考え、それから口を開いた。 「たしかこんな説明だったと思います。鹿児島から台湾まで点々と続く島々を南西諸島というそうです。南西諸島はこれまでに何度も地殻変動(ちかくへんどう)が起こって、中国大陸とつながったり離れたりしたそうです。つながった時代に大陸から沖縄や奄美に広がった生き物が、そのあと海でへだてられると島に取り残されてしまう。大陸のほうの生き物は天敵などにやられて絶滅(ぜつめつ)してしまい、島にとり残されたほうの生き物は天敵がいないので生き延びた。その結果、この地域にしかいない生き物が残った」
検索を終えた大雅が、タブレットの画面に目を寄せた。
「松山さんが答えてくれたとおりですね。補足すると、大陸と島だけでなく、島と島同士も長い歴史上でくっついたり離れたりしてきた。だから、島ごとに違った生物が残った。ハブの仲間は奄美大島や徳之島、沖縄島、西表島にはいるけど、そのあいだにある与論島や宮古島にはいない。それは、海面が上昇(じょうしょう)した時代に平べったい与論島や宮古島は海の底に沈(しず)んでしまい、ハブは絶滅してしまったわけです」
「ハブって沖縄にいる毒ヘビだよな」と悠馬。
「あれって奄美にもいるんだ」
「そうそう、思い出しましたわ」朱音がおっとりと答えた。
「ハブは南西諸島でも奄美大島から南にいるんですって。屋久島から北は温帯で、奄美大島から南は亜熱帯(あねったい)なので、暮らしている生き物が違うとか」
「これが生物の分布境界線です。このラインの北と南で生息している生物が分かれるわけです。有名なのは本州と北海道のあいだにあるブラキストン線。ツキノワグマやニホンザルはこの線より南に、ヒグマやシマリスはこの線より北に分布しています。そして、屋久島と奄美大島のあいだ、正確に言えば、トカラ列島という島々の悪石島と小宝島のあいだにある境界が渡瀬線(わたせせん)です。このラインより北が旧北区、南が東洋区という区分になるようです。奄美や沖縄は東洋区に入っていて、森も常緑広葉樹が主体になります」
大雅がタブレットを見ながら説明すると、翔が口をはさんだ。
「やんばるにはシイやカシの木が多いんだよ」
「よく知ってるじゃん」
悠馬が感心すると、翔は得意げに鼻を鳴らした。
「ヤンバルテナガコガネはシイやカシの大木にできた木の洞(うろ)の中にすんでいるからな」
「結局、虫オタの知識かよ!」
悠馬が突っ込みを入れ、翔が「悪いか!」と返す。じゃれ合うふたりを無視して、朱音がおっとりと言った。
「そうだ、虫で思い出しました。ミミズが重要だそうですよ」
「なに言ってんの! ミミズは虫じゃないし」
翔は朱音をばかにしたが、さくらは朱音の発言を拾った。
「ミミズが重要って、どういうこと?」
「ガイドさんが言うには、やんばるの森の生物多様性にとってミミズが重要なんだそうです。説明を聞いたんですけど、忘れてしまいました」
「なんじゃ、そりゃ」悠馬がいすからずり落ちる。
そのとき、心美がぽつんと言った。
「どんぐり......」
みんなの視線が、部屋のすみで読書をしていた地味な書記に向けられた。
「大場さん、今、『どんぐり』って言った?」
さくらが聞くと、心美はほおを真っ赤にしてうつむいた。
「ごめんなさい。つい、口をはさんでしまって......」
「それは全然かまわないけど、どんぐりってどういう意味なの? いまはミミズの話になってたんだけど」
「わ、わかってます。ミミズは重要なんですけど、その前にどんぐりの話をしたほうが......つまり......シイやカシはどんぐりを実らせますよね。そのどんぐりが森の動物たちをはぐくんでいるんです。とくにシイの実はおいしいし......」
「おれ、シイの実食ったことがあるぜ」翔が割り込んだ。
「うっすら甘くて、うまいよね」
「そうなんです」心美が力強くうなずくと、大きめの眼鏡が揺(ゆ)れた。
「人が食べてもおいしいシイの実は沖縄や奄美の動物たちの命をつなぐ糧(かて)になっています。リュウキュウイノシシもケナガネズミもアマミノクロウサギもルリカケスもシイの実が大好物です。そして、さっき北原くんが言ったように、シイの木は空洞(くうどう)ができやすいので、ケナガネズミやイシカワガエルのすみ家になり、ヤンバルテナガコガネやクワガタムシなどの幼虫がそこにたまった木くずの中で成長します。そして、シイの木の落葉が腐葉土(ふようど)となって、ミミズたちが育ちます。つまり......」ここまで一気に語って、心美は大きく深呼吸をした。
「つまり、シイの実が沖縄や奄美の生物多様性を支えていると言ってもいいんじゃないかと思います」
「そうなんだ、大場さんすごい! 東北の森はブナが支えているって聞いたことがあるけど、沖縄や奄美ではその役割をシイが果たしているのね」
目を輝かせながら手をたたくさくらの横で、朱音がうなずいた。
「ようやく、ミミズが出てきましたわね!」
翔はくちびるをとがらせた。
「大場さんが言うこともわかるけどさ、どうしてここでミミズが出てくるわけ? 松山さんもミミズが重要って言ってたけど、どんなふうに重要なの?」 と、心美が顔を真っ赤にして、必死で翔に反論した。
「ミミズは重要なんです。だって......」
「ちょいとお待ちを」タブレットをのぞいていた大雅が、ふいに声を上げた。「今がチャンスです。これからしばらくのあいだ、雨、風ともに弱くなります。台風が近づいてくる前に、今のうちに帰りましょう!」
「だって、ミミズは......」なおも心美はこだわっていた。
「ごめん。大場さんの話も聞きたいんだけど、今日はみんな、帰ったほうがいいと思う。大場さん、悪いけど、続きは明日きかせてもらえる?」
さくらの提案は説得力があったので、一同がうなずいた。心美も納得していた。
「はい、続きは明日にしましょう」
「もうちょっとわくわくしていたかったのに、もはやこれまでか」悠馬が残念そうに言った。
「さくらさん、わたくしたちも帰りましょう」
朱音にうながされ、さくらが全員に言った。
「じゃあ、みんな、気をつけて帰ってね。バイバイ!」
マンガ イラスト©中山ゆき/コルク
■著者紹介■
鳥飼 否宇(とりかい ひう)
福岡県生まれ。九州大学理学部生物学科卒業。編集者を経て、ミステリー作家に。2000年4月から奄美大島に在住。特定非営利活動法人奄美野鳥の会副会長。
2001年 - 『中空』で第21回横溝正史ミステリ大賞優秀作受賞。
2007年 - 『樹霊』で第7回本格ミステリ大賞候補。
2009年 - 『官能的』で第2回世界バカミス☆アワード受賞。
2009年 - 『官能的』で第62回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)候補。
2011年 - 「天の狗」(『物の怪』に収録)で第64日本推理作家協会賞(短編部門)候補。
2016年 - 『死と砂時計』で第16回本格ミステリ大賞(小説部門)受賞。
■監修■
株式会社シンク・ネイチャー
代表 久保田康裕(株式会社シンクネイチャー代表・琉球大学理学部教授)
熊本県生まれ。北海道大学農学部卒業。世界中の森林生態系を巡る長期フィールドワークと、ビッグデータやAIを活用したデータサイエンスを統合し、生物多様性の保全科学を推進する。
2014年 日本生態学会大島賞受賞、2019年 The International Association for Vegetation Science (IAVS) Editors Award受賞。日本の生物多様性地図化プロジェクト(J-BMP)(https://biodiversity-map.thinknature-japan.com)やネイチャーリスク・アラート(https://thinknature-japan.com/habitat-alert)をリリースし反響を呼ぶ。
さらに、進化生態学研究者チームで株式会社シンクネイチャーを起業し、未来社会のネイチャートランスフォーメーションをゴールにしたNafureX構想を打ち立てている。
鳥飼 否宇(とりかい ひう)
福岡県生まれ。九州大学理学部生物学科卒業。編集者を経て、ミステリー作家に。2000年4月から奄美大島に在住。特定非営利活動法人奄美野鳥の会副会長。
2001年 - 『中空』で第21回横溝正史ミステリ大賞優秀作受賞。
2007年 - 『樹霊』で第7回本格ミステリ大賞候補。
2009年 - 『官能的』で第2回世界バカミス☆アワード受賞。
2009年 - 『官能的』で第62回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)候補。
2011年 - 「天の狗」(『物の怪』に収録)で第64日本推理作家協会賞(短編部門)候補。
2016年 - 『死と砂時計』で第16回本格ミステリ大賞(小説部門)受賞。
■監修■
株式会社シンク・ネイチャー
代表 久保田康裕(株式会社シンクネイチャー代表・琉球大学理学部教授)
熊本県生まれ。北海道大学農学部卒業。世界中の森林生態系を巡る長期フィールドワークと、ビッグデータやAIを活用したデータサイエンスを統合し、生物多様性の保全科学を推進する。
2014年 日本生態学会大島賞受賞、2019年 The International Association for Vegetation Science (IAVS) Editors Award受賞。日本の生物多様性地図化プロジェクト(J-BMP)(https://biodiversity-map.thinknature-japan.com)やネイチャーリスク・アラート(https://thinknature-japan.com/habitat-alert)をリリースし反響を呼ぶ。
さらに、進化生態学研究者チームで株式会社シンクネイチャーを起業し、未来社会のネイチャートランスフォーメーションをゴールにしたNafureX構想を打ち立てている。
『将来』のこの記事もあわせて読む!
新学期キャンペーン
キャンペーン中!ですよ。リンクは特になし