『鳥飼否宇「生徒会書記はときどき饒舌」
第1話 消えたツバメの謎(後編)』
「で、大場さん、ツバメが減った原因ってなんなの?」
佐野悠馬が大場心美に質問した。場所は生徒会室。放課後、昨日と同じ5人が顔をそろえていた。
「えっと......」心美は気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした。あがり症の心美の頬(ほお)は真っ赤に染まっていた。「その前に復習しますね。佐野くんがツバメの減った原因として挙(あ)げたのは、巣を作るのに適した民家が減ったことと......」
心美の口調がのんびりしているのに焦(じ)れたのか、浜松大雅が口をはさんだ。
「天敵のカラスが増えたことでした。昨日はそれで納得しかけたのですが、大場さんはこのふたつよりももっと大きな原因があるって言いましたよね?」
「はい」心美がこくんとうなずくと、大きめの眼鏡が揺(ゆ)れた。4人が見つめるなか、心美は勇気を振り絞って言った。「それはエサが減ったからです」
「異議あり!」北原翔が手を挙げて発言する。「昨日も言ったけど、虫の数は減ったように思えない。クマゼミとかクロアゲハとか大きな昆虫はむしろ増えたくらいです」
「カは?」心美がきいた。
「カって、あの血を吸うカのこと? いや、カなんて採集しないからわかんないけど......」
「トンボは減ったって言ってましたよね?」
「うん。田んぼや池がなくなったから、幼虫時代をヤゴとして水のなかで暮らすトンボは減った」
翔が答えると、心美は微笑(ほほえ)んだ。
「カも幼虫時代はボウフラとして水のなかで暮らしますよね」
心美の言葉を受けて、岡村さくらが手をたたいた。 「思い出した! お父さんが言ってたの。池がなくなったのはさびしいけど、ボウフラがいなくなったのは助かるって。ほら、うちって前に池があったところの近くだし」
心美はわが意を得たかのようにうなずいた。
「カは減ったはずです。そしてトンボもツバメも、カやユスリカ、ハエなどの仲間が大好物です。トンボが減ったのには単に水辺が減っただけでなく、エサとなるカなどが減ったことも原因となっていると思います。さらに言えば、ツバメは飛ぶ虫を食べるので、トンボもよく捕まえます。カだけでなくトンボも減ってしまうとツバメにとっては大きなダメージだったはずです。小さなチョウも捕まえますが、アゲハチョウはツバメにとっては大きすぎます。セミの仲間はあまり飛ばないのでツバメのエサには向いていません。子育てにはたくさんのエサが必要ですが、それを確保するのが難しくなって、巣を作らなくなったのだと思います」
一気に語った心美が息を整えると、黙って説明を聞いていた浜松大雅が納得顔になった。
「だから以前、田んぼと池の周(まわ)りにあった巣ばかりなくなってしまったわけですね。なるほど大場さんの説明を聞いてよくわかりました」
学校一の秀才に認められると、悠馬も認めざるを得なかった。
「大場さん、ありがとう。おれの分析が甘かった。やっぱエサは重要だね。結果をまとめる前に翔にきいたら、虫は減ってないって答えだったから、無視しちゃった。それにしても嫌われ者のカなんて、いなくなっちゃえばいいと思ったけど、ツバメにとっては大切なんだね」
心美の眼鏡がきらりと輝く。そして、深呼吸をして語った。
「カは日本脳炎やマラリアなどの伝染病の病原体を運ぶので、ヒトにとっては有害です。ハエも不潔な虫としてヒトから嫌われます。でも、ヒトに有害なカやハエはほんのひと握りで、ほとんどのカやハエはヒトと関係なく暮らしています。カやハエは一度に膨大な数が発生します。とくに、寒い地域、シベリアとかアラスカとか、日本では北海道。そんな地域では、短い夏の間にものすごい数のカやハエが一斉に発生します。その多くの虫たちを狙(ねら)って、数多くの鳥たちが温かい場所から渡ってくるのです。ツバメも渡り鳥ですが、多くの渡り鳥にとってカやハエは命を繋(つな)ぐ重要な糧なのです。私はこの世からいなくなったほうがいい生き物なんていないと思います」
いつもおじおじした態度の心美の変貌(へんぼう)ぶりに、ほかの生徒会のメンバーたちは目を見張っていた。そんななか、大雅が眼鏡(めがね)に手を添えて、にやりと笑った。
「大場さんのおっしゃることもわかりますが、やはりいなくなったほうがいい生き物はいるんじゃないでしょうか。ぼくはゴキブリにはいなくなってほしいですね。どうでしょう?」
「うっ」心美が言葉に詰(つ)まる。「実はわたしもゴキブリは苦手です。無条件に嫌悪感が湧(わ)いてくるので......」
「そうでしょ?」と大雅。
「でも、ゴキブリはヒトよりも昔からこの地球上に生きていました。あとから地球上に出現したヒトの家に侵入して嫌われているのは、たくさんいるゴキブリのほんの一部で、大半のゴキブリは野外にいます。落葉の下とか、朽木(くちき)のなかとか。そんなゴキブリたちは自然界のなかで大きな役割を担っています」
「ん、大きな役割とはなんでしょう? カやハエと同じように、鳥のエサになっているとかですか」
「ゴキブリもトカゲや鳥、あるいはほかの肉食の昆虫やクモなどに食べられています。でもそれ以上に重要なのは、ゴキブリがセルロースを分解することです」
「セルロースというと植物繊維の成分ですね」
大雅の指摘に、心美がうなずく。
「枯れた木や倒れた木、落葉などをゴキブリが食べて消化することで、それらの分解されにくい物質が土にかえっていきます。腐ったものならなんでも食べるゴキブリは森の掃除屋さんと考えていいと思います。ゴキブリがいなくなってしまうと、森林の再生はもっともっと多くの時間がかかってしまうはずです」
「ゴキブリも森の成り立ちにひと役買っているのね」さくらが目を見開いた。「じゃあ、ヘビは? ヘビがいなくなってもわたしは困らない気がする」
「会長はヘビが嫌いなのですか?」
「大嫌い!」さくらが肩を抱いて即答した。「思い出すだけで怖くなっちゃう」
「毒ヘビには近づきたくないですけど、案外かわいいものですよ、ヘビ」心美は平然としている。「肉食動物のヘビはカエルや鳥の卵、ネズミなどを食べます。もし、ヘビがいなくなってしまうと、ネズミが増えてしまうかもしれません。ネズミが増えすぎると、農業に被害が出てしまうかもしれません」 さくらが素朴な疑問をぶつけた。 「ネズミが増えすぎるとよくないことは想像できるけど、べつにカエルが増えたってかまわないんじゃないの?」
「その話はちょっと後回しにしてもいいでしょうか。ごめんなさい。先を続けると、ヘビはほかの動物を食べる一方で、カラスやタカに食べられます。キツネやタヌキもヘビを食べます。ヘビがいなくなってしまえば、これらの動物が影響を受けるでしょうね」 「ヘビを食べる動物もいるのね。たしかにその動物たちにとっては、ヘビがいなくなってしまうと困るかも」
「はい」心美が眼鏡を揺らして大きくうなずいた。「すべての生き物は食べる食べられるという関係で繋がっています。食物連鎖ですね。さっきカエルの話が出ましたが、カエルはミミズや虫を食べ、ヘビや鳥などに食べられます。カエルが増えすぎると、ミミズや虫が減って、そのミミズや虫を食べる動物が影響を受けるわけです。自然界の生物は複雑な食物連鎖で繋がっています。だからなにかひとつの生物がいなくなると、それを食べたりそれに食べられたりする生物に必ず影響が出ます。それが回り回って、自然界の一員であるヒトにも影響が及ぶわけです。だからこの世からいなくなってもいい生物なんていないと思います」
「そう言うけどさ」翔が口をとがらせる。「カビはどうなんだよ。カビって菌類だし、生物だよね。ぼくの足の水虫もカビの一種だって聞いた。カビなんてこの世からなくなったほうがよくない?」
「そんなことはありません」心美が顔をモミジのように真っ赤にして反論する。「菌類は自然界のなかでは分解者。さっきのゴキブリにも似ていますが、菌類は自然界の掃除屋です。そして、菌類はわたしたちヒトにとってもっと直接的な恩恵を与えています」
「わかりました」大雅が声を上げた。「キノコも菌だから、シイタケやマツタケ、シメジなど、食材として欠かせません。そういうことでしょうか」
と、翔が再び口をとがらせた。
「話が違ってない? ぼくが言っているのはキノコではなくて、カビのこと。キノコは食べても、カビは食べないだろ?」
「イースト菌のおかげでパンがおいしくなるのではありませんか?」と大雅。「イースト菌は単細胞のカビのことです。コウジカビがなければ、味噌(みそ)も醤油もできません。ブルーチーズはチーズをアオカビで醸成させますし......」
「わかった、わかった。ぼくがまちがってたよ。たしかにカビはぼくらの食べ物に大きく貢献(こうけん)してくれているよ。みくびってごめんなさい、カビさん!」
ぺこりと頭を下げる翔を見て、心美が笑った。
「抗生物質のペニシリンもアオカビから発見されました。薬は植物の成分から作られているものが数えきれないほどあります。さっきの食物連鎖とはべつに、このようにヒトに直接恩恵を与えてくれる生物もたくさんいます。生物は単独では生きていけません。必ずほかの生物と繋がりながら生きています。わたしたちヒトには直接関係がなさそうな繋がりでも、それがどこでヒトに影響を及ぼすかもわかりません。生物は多様です。そして多様であることに価値があるのです」
すると突然、生徒会室の引き戸がガラガラと開けられ、ひとりの男子生徒が入ってきた。
「大場いる?」
入ってきたのは入院しているはずの小清水亮だった。いきなり問題児が現れたので、さくらも悠馬も緊張をかくせなかった。それは大雅と翔も同じだったが、名を呼ばれた心美はいつもと変わらなかった。
「あ、小清水くん。もう学校に出てきてだいじょうぶなんですか?」
「おお。さっき退院してきたんで、学校は明日から。その前に、借りていたノート返しとこうと思って。ありがとな、サンキュ」
亮はノートを心美に手渡すと、「じゃあな」と去っていった。足音が遠ざかったところで、さくらが心美に質問の矢を放つ。
「なになに? 大場さん、いまのなに?」
ついさっきまで人が変わったように堂々としていた心美が、元の引っ込み思案な女子生徒に戻った。
「いや、あの......この前、わたしがぼおっと歩いていたら、高校生の三人組のひとりにぶつかってしまって......それで因縁(いんねん)をつけられて困っていたら、たまたま通りかかった小清水くんが体を張って守ってくれて......三人からなぐるけるの暴行を受けて、肋骨(ろっこつ)を......」
「えっ、そうだったの⁉」さくらの声が裏返る。「骨折するほどぼこぼこにやられても、大場さんを守ってくれたんだ。なにそれ、カッコよすぎる! だったら、初めからそういえばいいのに」
「恥ずかしいから絶対にしゃべるなと口止めされて......でも、言っちゃった」
顔を真っ赤にしながら告白する心美に、大雅がかまをかける。
「もしかして昨日あわてて帰ったのは?」 「はい。そのノートを届けるためでした。数学の授業についていけなくなるといやだから、ノートを見せてくれって頼まれて......」
「小清水ってそんなヤツだったの? びっくり!」翔が目を丸くする。
「人を一面だけで判断しちゃいけないって教わったけど、いつの間にか小清水君のことを問題ばかり起こす人って決めつけてたかも。ごめんなさい」
さくらが頭を下げると、大雅が眼鏡に手を添えた。
「ダイバーシティを認める社会に、と言われていますね」
「ダイバーシティってなんだっけ?」と翔。「最近よく聞くけど、ちゃんとわかっていなくって......」
大雅がタブレットで検索した。
「日本語にすれば多様性。性別、年齢、学歴、国籍、人種......さまざまなヒトの生き方を尊重しようという考え方が、ダイバーシティという言葉には含まれています」
「どのヒトもかけがえのない存在で、必要ないヒトなんてだれもいないってことよね。生徒会としてはS中の生徒はだれでも同じように扱うべきよね」
さくらが言うと、ほかの4人も深くうなずいた。
「生物多様性は英語でバイオ・ダイバーシティです」心美が静かに言った。「人間社会のダイバーシティと同じように、どんな生物も生きていることそのものに価値があるかけがえのない存在なんだと思います」
「そっか!」悠馬がにっこり笑った。「生物もヒトも多様性が重要なんだね、きっと」
佐野悠馬が大場心美に質問した。場所は生徒会室。放課後、昨日と同じ5人が顔をそろえていた。
「えっと......」心美は気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした。あがり症の心美の頬(ほお)は真っ赤に染まっていた。「その前に復習しますね。佐野くんがツバメの減った原因として挙(あ)げたのは、巣を作るのに適した民家が減ったことと......」
心美の口調がのんびりしているのに焦(じ)れたのか、浜松大雅が口をはさんだ。
「天敵のカラスが増えたことでした。昨日はそれで納得しかけたのですが、大場さんはこのふたつよりももっと大きな原因があるって言いましたよね?」
「はい」心美がこくんとうなずくと、大きめの眼鏡が揺(ゆ)れた。4人が見つめるなか、心美は勇気を振り絞って言った。「それはエサが減ったからです」
「異議あり!」北原翔が手を挙げて発言する。「昨日も言ったけど、虫の数は減ったように思えない。クマゼミとかクロアゲハとか大きな昆虫はむしろ増えたくらいです」
「カは?」心美がきいた。
「カって、あの血を吸うカのこと? いや、カなんて採集しないからわかんないけど......」
「トンボは減ったって言ってましたよね?」
「うん。田んぼや池がなくなったから、幼虫時代をヤゴとして水のなかで暮らすトンボは減った」
翔が答えると、心美は微笑(ほほえ)んだ。
「カも幼虫時代はボウフラとして水のなかで暮らしますよね」
心美の言葉を受けて、岡村さくらが手をたたいた。 「思い出した! お父さんが言ってたの。池がなくなったのはさびしいけど、ボウフラがいなくなったのは助かるって。ほら、うちって前に池があったところの近くだし」
心美はわが意を得たかのようにうなずいた。
「カは減ったはずです。そしてトンボもツバメも、カやユスリカ、ハエなどの仲間が大好物です。トンボが減ったのには単に水辺が減っただけでなく、エサとなるカなどが減ったことも原因となっていると思います。さらに言えば、ツバメは飛ぶ虫を食べるので、トンボもよく捕まえます。カだけでなくトンボも減ってしまうとツバメにとっては大きなダメージだったはずです。小さなチョウも捕まえますが、アゲハチョウはツバメにとっては大きすぎます。セミの仲間はあまり飛ばないのでツバメのエサには向いていません。子育てにはたくさんのエサが必要ですが、それを確保するのが難しくなって、巣を作らなくなったのだと思います」
一気に語った心美が息を整えると、黙って説明を聞いていた浜松大雅が納得顔になった。
「だから以前、田んぼと池の周(まわ)りにあった巣ばかりなくなってしまったわけですね。なるほど大場さんの説明を聞いてよくわかりました」
学校一の秀才に認められると、悠馬も認めざるを得なかった。
「大場さん、ありがとう。おれの分析が甘かった。やっぱエサは重要だね。結果をまとめる前に翔にきいたら、虫は減ってないって答えだったから、無視しちゃった。それにしても嫌われ者のカなんて、いなくなっちゃえばいいと思ったけど、ツバメにとっては大切なんだね」
心美の眼鏡がきらりと輝く。そして、深呼吸をして語った。
「カは日本脳炎やマラリアなどの伝染病の病原体を運ぶので、ヒトにとっては有害です。ハエも不潔な虫としてヒトから嫌われます。でも、ヒトに有害なカやハエはほんのひと握りで、ほとんどのカやハエはヒトと関係なく暮らしています。カやハエは一度に膨大な数が発生します。とくに、寒い地域、シベリアとかアラスカとか、日本では北海道。そんな地域では、短い夏の間にものすごい数のカやハエが一斉に発生します。その多くの虫たちを狙(ねら)って、数多くの鳥たちが温かい場所から渡ってくるのです。ツバメも渡り鳥ですが、多くの渡り鳥にとってカやハエは命を繋(つな)ぐ重要な糧なのです。私はこの世からいなくなったほうがいい生き物なんていないと思います」
いつもおじおじした態度の心美の変貌(へんぼう)ぶりに、ほかの生徒会のメンバーたちは目を見張っていた。そんななか、大雅が眼鏡(めがね)に手を添えて、にやりと笑った。
「大場さんのおっしゃることもわかりますが、やはりいなくなったほうがいい生き物はいるんじゃないでしょうか。ぼくはゴキブリにはいなくなってほしいですね。どうでしょう?」
「うっ」心美が言葉に詰(つ)まる。「実はわたしもゴキブリは苦手です。無条件に嫌悪感が湧(わ)いてくるので......」
「そうでしょ?」と大雅。
「でも、ゴキブリはヒトよりも昔からこの地球上に生きていました。あとから地球上に出現したヒトの家に侵入して嫌われているのは、たくさんいるゴキブリのほんの一部で、大半のゴキブリは野外にいます。落葉の下とか、朽木(くちき)のなかとか。そんなゴキブリたちは自然界のなかで大きな役割を担っています」
「ん、大きな役割とはなんでしょう? カやハエと同じように、鳥のエサになっているとかですか」
「ゴキブリもトカゲや鳥、あるいはほかの肉食の昆虫やクモなどに食べられています。でもそれ以上に重要なのは、ゴキブリがセルロースを分解することです」
「セルロースというと植物繊維の成分ですね」
大雅の指摘に、心美がうなずく。
「枯れた木や倒れた木、落葉などをゴキブリが食べて消化することで、それらの分解されにくい物質が土にかえっていきます。腐ったものならなんでも食べるゴキブリは森の掃除屋さんと考えていいと思います。ゴキブリがいなくなってしまうと、森林の再生はもっともっと多くの時間がかかってしまうはずです」
「ゴキブリも森の成り立ちにひと役買っているのね」さくらが目を見開いた。「じゃあ、ヘビは? ヘビがいなくなってもわたしは困らない気がする」
「会長はヘビが嫌いなのですか?」
「大嫌い!」さくらが肩を抱いて即答した。「思い出すだけで怖くなっちゃう」
「毒ヘビには近づきたくないですけど、案外かわいいものですよ、ヘビ」心美は平然としている。「肉食動物のヘビはカエルや鳥の卵、ネズミなどを食べます。もし、ヘビがいなくなってしまうと、ネズミが増えてしまうかもしれません。ネズミが増えすぎると、農業に被害が出てしまうかもしれません」 さくらが素朴な疑問をぶつけた。 「ネズミが増えすぎるとよくないことは想像できるけど、べつにカエルが増えたってかまわないんじゃないの?」
「その話はちょっと後回しにしてもいいでしょうか。ごめんなさい。先を続けると、ヘビはほかの動物を食べる一方で、カラスやタカに食べられます。キツネやタヌキもヘビを食べます。ヘビがいなくなってしまえば、これらの動物が影響を受けるでしょうね」 「ヘビを食べる動物もいるのね。たしかにその動物たちにとっては、ヘビがいなくなってしまうと困るかも」
「はい」心美が眼鏡を揺らして大きくうなずいた。「すべての生き物は食べる食べられるという関係で繋がっています。食物連鎖ですね。さっきカエルの話が出ましたが、カエルはミミズや虫を食べ、ヘビや鳥などに食べられます。カエルが増えすぎると、ミミズや虫が減って、そのミミズや虫を食べる動物が影響を受けるわけです。自然界の生物は複雑な食物連鎖で繋がっています。だからなにかひとつの生物がいなくなると、それを食べたりそれに食べられたりする生物に必ず影響が出ます。それが回り回って、自然界の一員であるヒトにも影響が及ぶわけです。だからこの世からいなくなってもいい生物なんていないと思います」
「そう言うけどさ」翔が口をとがらせる。「カビはどうなんだよ。カビって菌類だし、生物だよね。ぼくの足の水虫もカビの一種だって聞いた。カビなんてこの世からなくなったほうがよくない?」
「そんなことはありません」心美が顔をモミジのように真っ赤にして反論する。「菌類は自然界のなかでは分解者。さっきのゴキブリにも似ていますが、菌類は自然界の掃除屋です。そして、菌類はわたしたちヒトにとってもっと直接的な恩恵を与えています」
「わかりました」大雅が声を上げた。「キノコも菌だから、シイタケやマツタケ、シメジなど、食材として欠かせません。そういうことでしょうか」
と、翔が再び口をとがらせた。
「話が違ってない? ぼくが言っているのはキノコではなくて、カビのこと。キノコは食べても、カビは食べないだろ?」
「イースト菌のおかげでパンがおいしくなるのではありませんか?」と大雅。「イースト菌は単細胞のカビのことです。コウジカビがなければ、味噌(みそ)も醤油もできません。ブルーチーズはチーズをアオカビで醸成させますし......」
「わかった、わかった。ぼくがまちがってたよ。たしかにカビはぼくらの食べ物に大きく貢献(こうけん)してくれているよ。みくびってごめんなさい、カビさん!」
ぺこりと頭を下げる翔を見て、心美が笑った。
「抗生物質のペニシリンもアオカビから発見されました。薬は植物の成分から作られているものが数えきれないほどあります。さっきの食物連鎖とはべつに、このようにヒトに直接恩恵を与えてくれる生物もたくさんいます。生物は単独では生きていけません。必ずほかの生物と繋がりながら生きています。わたしたちヒトには直接関係がなさそうな繋がりでも、それがどこでヒトに影響を及ぼすかもわかりません。生物は多様です。そして多様であることに価値があるのです」
すると突然、生徒会室の引き戸がガラガラと開けられ、ひとりの男子生徒が入ってきた。
「大場いる?」
入ってきたのは入院しているはずの小清水亮だった。いきなり問題児が現れたので、さくらも悠馬も緊張をかくせなかった。それは大雅と翔も同じだったが、名を呼ばれた心美はいつもと変わらなかった。
「あ、小清水くん。もう学校に出てきてだいじょうぶなんですか?」
「おお。さっき退院してきたんで、学校は明日から。その前に、借りていたノート返しとこうと思って。ありがとな、サンキュ」
亮はノートを心美に手渡すと、「じゃあな」と去っていった。足音が遠ざかったところで、さくらが心美に質問の矢を放つ。
「なになに? 大場さん、いまのなに?」
ついさっきまで人が変わったように堂々としていた心美が、元の引っ込み思案な女子生徒に戻った。
「いや、あの......この前、わたしがぼおっと歩いていたら、高校生の三人組のひとりにぶつかってしまって......それで因縁(いんねん)をつけられて困っていたら、たまたま通りかかった小清水くんが体を張って守ってくれて......三人からなぐるけるの暴行を受けて、肋骨(ろっこつ)を......」
「えっ、そうだったの⁉」さくらの声が裏返る。「骨折するほどぼこぼこにやられても、大場さんを守ってくれたんだ。なにそれ、カッコよすぎる! だったら、初めからそういえばいいのに」
「恥ずかしいから絶対にしゃべるなと口止めされて......でも、言っちゃった」
顔を真っ赤にしながら告白する心美に、大雅がかまをかける。
「もしかして昨日あわてて帰ったのは?」 「はい。そのノートを届けるためでした。数学の授業についていけなくなるといやだから、ノートを見せてくれって頼まれて......」
「小清水ってそんなヤツだったの? びっくり!」翔が目を丸くする。
「人を一面だけで判断しちゃいけないって教わったけど、いつの間にか小清水君のことを問題ばかり起こす人って決めつけてたかも。ごめんなさい」
さくらが頭を下げると、大雅が眼鏡に手を添えた。
「ダイバーシティを認める社会に、と言われていますね」
「ダイバーシティってなんだっけ?」と翔。「最近よく聞くけど、ちゃんとわかっていなくって......」
大雅がタブレットで検索した。
「日本語にすれば多様性。性別、年齢、学歴、国籍、人種......さまざまなヒトの生き方を尊重しようという考え方が、ダイバーシティという言葉には含まれています」
「どのヒトもかけがえのない存在で、必要ないヒトなんてだれもいないってことよね。生徒会としてはS中の生徒はだれでも同じように扱うべきよね」
さくらが言うと、ほかの4人も深くうなずいた。
「生物多様性は英語でバイオ・ダイバーシティです」心美が静かに言った。「人間社会のダイバーシティと同じように、どんな生物も生きていることそのものに価値があるかけがえのない存在なんだと思います」
「そっか!」悠馬がにっこり笑った。「生物もヒトも多様性が重要なんだね、きっと」
マンガ イラスト©中山ゆき/コルク
■著者紹介■
鳥飼 否宇(とりかい ひう)
福岡県生まれ。九州大学理学部生物学科卒業。編集者を経て、ミステリー作家に。2000年4月から奄美大島に在住。特定非営利活動法人奄美野鳥の会副会長。
2001年 - 『中空』で第21回横溝正史ミステリ大賞優秀作受賞。
2007年 - 『樹霊』で第7回本格ミステリ大賞候補。
2009年 - 『官能的』で第2回世界バカミス☆アワード受賞。
2009年 - 『官能的』で第62回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)候補。
2011年 - 「天の狗」(『物の怪』に収録)で第64日本推理作家協会賞(短編部門)候補。
2016年 - 『死と砂時計』で第16回本格ミステリ大賞(小説部門)受賞。
■監修■
株式会社シンク・ネイチャー
代表 久保田康裕(株式会社シンクネイチャー代表・琉球大学理学部教授)
熊本県生まれ。北海道大学農学部卒業。世界中の森林生態系を巡る長期フィールドワークと、ビッグデータやAIを活用したデータサイエンスを統合し、生物多様性の保全科学を推進する。
2014年 日本生態学会大島賞受賞、2019年 The International Association for Vegetation Science (IAVS) Editors Award受賞。日本の生物多様性地図化プロジェクト(J-BMP)(https://biodiversity-map.thinknature-japan.com)やネイチャーリスク・アラート(https://thinknature-japan.com/habitat-alert)をリリースし反響を呼ぶ。
さらに、進化生態学研究者チームで株式会社シンクネイチャーを起業し、未来社会のネイチャートランスフォーメーションをゴールにしたNafureX構想を打ち立てている。
鳥飼 否宇(とりかい ひう)
福岡県生まれ。九州大学理学部生物学科卒業。編集者を経て、ミステリー作家に。2000年4月から奄美大島に在住。特定非営利活動法人奄美野鳥の会副会長。
2001年 - 『中空』で第21回横溝正史ミステリ大賞優秀作受賞。
2007年 - 『樹霊』で第7回本格ミステリ大賞候補。
2009年 - 『官能的』で第2回世界バカミス☆アワード受賞。
2009年 - 『官能的』で第62回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)候補。
2011年 - 「天の狗」(『物の怪』に収録)で第64日本推理作家協会賞(短編部門)候補。
2016年 - 『死と砂時計』で第16回本格ミステリ大賞(小説部門)受賞。
■監修■
株式会社シンク・ネイチャー
代表 久保田康裕(株式会社シンクネイチャー代表・琉球大学理学部教授)
熊本県生まれ。北海道大学農学部卒業。世界中の森林生態系を巡る長期フィールドワークと、ビッグデータやAIを活用したデータサイエンスを統合し、生物多様性の保全科学を推進する。
2014年 日本生態学会大島賞受賞、2019年 The International Association for Vegetation Science (IAVS) Editors Award受賞。日本の生物多様性地図化プロジェクト(J-BMP)(https://biodiversity-map.thinknature-japan.com)やネイチャーリスク・アラート(https://thinknature-japan.com/habitat-alert)をリリースし反響を呼ぶ。
さらに、進化生態学研究者チームで株式会社シンクネイチャーを起業し、未来社会のネイチャートランスフォーメーションをゴールにしたNafureX構想を打ち立てている。
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